引退レースを飾って恩返し

さて、ここで終わってはサラブレッドの語りは歓喜だけに終わってしまいます。そのあと、ミノルっは菊花賞にも挑戦しましたが、ダービーで力を使い果たしたと思いました。その後1勝したものの、重賞2レース連続で1番人気で勝てず、保田隆芳騎手最後のオープン京王杯スプリングハンデで記憶では馬体重20キロ超増で出走、見るからに明らかに太目の馬体、それが内を鋭く伸びての差し切り勝ち、こんな感動を与えるサラブレッド、素晴らしい。

厩務員さんが馬場に飛び出し、トライアルではダービー馬が放馬

1969年のダービーはダイシンボルガードが劇的な勝利をおさめました。私1点勝負で連複を取りました。ところで、このダービー、当時名人騎手保田隆芳がミノルでダービー制覇するため引退を伸ばしたダービーでもありました。

当時のダービートライアルはNHK杯芝2000メートルでした。ダイシンボルガードはゲートイン前放牧してしまいました。このやんちゃ馬と思いダービー馬にあげました。

NHK杯はそれでも4着、ダービーは尾形厩舎2頭出しのハクエイホウの逃げ切りかと、

思われたところをダイシンボルガードが差し、1枠ミノルの追撃をかわし優勝、埒を越え馬場に入った厩務員さんの歓喜がスポーツ氏の1面を飾りました。馬連1-6

3990円的中。

さて、ここで終わってはサラブレッドの語りは歓喜だけに終わってしまいます。そのあと、ミノルっは菊花賞にも挑戦しましたが、ダービーで力を使い果たしたと思いました。

 

1968年ダービー馬に騙されました

1968年の3歳馬は3強の争いでした。関西から東上したマーチス、関東の雄アサカオーと公営から連勝街道のタケシバオーの3頭がダービー制覇と思われていました。そのころの関西馬皐月賞、ダービーを目指し、東上します。東上は新馬戦から勝ち星をあげ、トライアルレースで競馬場に慣れさせクラシックをめざすローテーションが一般的でした。マーチスと同時にタニノハローモアも東上、風の噂でマーチスより力が上と聞いていました。私は東上ごの3レース同馬を追いかけましたが、良いところなく噂の片りんもなくダービーを迎えました。それがまさかまさかの逃げ切り勝ち、これにはまいりました。

この年1頭馬主さん孝行の馬を紹介します。57戦12勝のライトワールド、増沢末夫騎手が皐月賞、ダービーに騎乗しましたが、そのあと騎乗した吉永正人騎手、その後3冠馬騎手になりましたが、ライトワールドで重賞に顔を出し、コウジョウ、ゼンマツという最高方から差し切る思い切りの良い騎乗ぶりが3冠馬ミスターシービーにつながったように思います。また、ライトワールドの馬主渡辺光一さんはサラリーマン馬主として知られました。

重賞馬の仕上げとオープン大将

現在、2カ月、3カ月の休養明けから走る馬を見ると、天栄などのトレーニング設備の充実で重賞、クラッシック馬はファンの期待に応える調教師の先生仕上げに感心してしまいます。当時、クラッシク出走を目指す有力馬はレース前に思い重量を背負い調教代わりかオープンレースに7,8分の状態で出走させて、目標レースに挑戦していました。小柳騎手のニットエイト騎乗は見慣れてしまいました。その間隙を縫ってオープン大将の異名をとった石掛征雄騎手騎乗コーヨーは重賞では走らないがオープンでは二重丸だらけで好走しました。

ちょうど競馬をはじめた頃は競走馬にとっても、さまざまな動きがありました。

サラ系アラブ馬、外国産馬抽選馬と国内の競馬は国際化の道へと加速していきました。

①、1958年連戦連勝のセイユウサラ系アラブとして天皇賞に挑戦しました。

残念ながらセイユウに続く馬は現れず、ダート主戦のアラブは地方へと移って行きました。もう一頭7連勝を飾ったものの骨折で中央引退のキタノダイオウはサラ系で血の論議の話題を提供しました。強かったです。

②、抽選馬の象徴は1969年ダービー1番人気のタカツバキと1968年オークス

ルピナスでした。当時私は、血統の良い馬がダービー馬という考えを持っていましたので、タカツバキは勝てないと馬券の検討から外しました。まさかスタートで落馬する

とは思いませんでした。何か抽選馬の宿命を感じざるを得ませんでした。余談ですが

落馬した嶋田功騎手は覚醒したかのようにナスカオリをはじめ「牝馬の嶋田」の異名をほしいままにしました。

③、外国産馬は何と言ってもマルゼンスキーのダービー挑戦についてです。6戦6勝で1977年、外国産馬の出走は認められないため、主戦騎手中野渡清一騎手騎手は「大外枠で良いから、勝っても優勝の扱いになくて良い」と訴えた逸話は当時同情をかっていました。もう一頭スピード豊かなスピリットスワップスも忘れられない1頭です。

このころ、今は殆どの騎手は厩舎に所属しないでフリーの立場で騎乗馬の乗り替わりは頻繁に行われていますが、そのころ東西に名うての騎手がおりましたが、その騎手以上のこの馬にこの騎手ありの馬を応援したいました。

ジンライ、吉川英治さん命名で有名。笹倉武久騎手。ニットウヤヨイ沢峰次騎手、メイジシロー中野渡清一騎手、ロンザラス増田久騎手、大橋巨泉氏お気に入りモンタサン油木宜夫騎手、オンワードヒル牧野三雄騎手、ヒシマサヒデ小野定男騎手、スイジン地方福島競馬といえばこの馬、町田精生騎手など。

 

 

競馬は芝生の施設で、土日、祭日の仕事のない日にやるもの

競馬っはヨーロッパ発祥の紳士淑女の社交の場で、緑豊かな芝でサラブレッドの素晴らしさを堪能する優雅な遊びと思って始めました。

日本では財産に恵まれた一握りの馬主は到底庶民にはなりえない存在に映っていました。

下町に育った私は、浅草・錦糸町・後楽園の場外馬券場に行きましたが、耳に赤鉛筆。

馬券場周辺には立ち飲み屋、といったところを横目に馬券購入をするのが、当時の競馬に対する風景であり、良いイメージには捉えられませんでした。

そんな周囲の大人は、競馬ギャンブルで財産をつぎ込んでしまった話を耳にするとともに、競馬に取り組む姿勢が問われていました。

そういう意味では、中央競馬の開催が土日、祭日に限られ、ギャンブルの色彩の強い公営競馬は平日、地方のどこでも行われているところに、中央競馬だけをやっていれば、周りの心配ネタにはならないし、芝生のきれいな広い競馬場は健全な環境に思えていました。その時、広大な芝生でサラブレッドの素晴らしさを公正で健全な運営の中で繰り広げられる場が競馬場と捉えて現在に至っております。平日本文の仕事に汗を流し、土日競馬で疲れを癒す、そんな競馬を楽しむこそ、ヨーロッパの高尚な遊びの日本版の楽しみ方ではないかと思っております。

わたしは、中央の馬が公営競馬主催のレース結果には馬券検討の材料として、成績結果は見ますが、ほとんど馬券購入もしませんし、新聞記事も見ません。

最近、ギャンブル依存症の問題がクローズアップされていますが、中央も公営競馬も自宅で購入できる環境に大きく起因していると思いますが。当時は競馬新聞の解説者と放送関係者位が競馬の外側の職業でしたが、今や予想のプロを中心にギャンブルは儲かるんだという幻想を与え、そういう風潮こそが、大した馬券検討もせず、自己責任の意識を持った馬券購入を忘れさせているのでは、とおもいます。

 

 

 

 

競馬をやる上での覚悟

ビギナーズラックで競馬の面白さ、深さを知って行く前に、競馬の取り組む姿勢を

貫くルールとマナーを構築していきました。

下町に育った私は、周囲の大人たちが一番心配する事を枠組みにして、現在も

続けています。特にギャンブルで私産を食いつぶす事はあってはなりません。

競馬は中央競馬開催が土日、祭日開催に今でもなっています。一方、公営競馬{法人

主催、地方都道府県主催}平日開催となっています。

一般的な大人は平日仕事に専念し土日趣味の一環として競馬を楽しみ、他のギャンブルは、平日が休日か地方の旅行のついでに遊ぶのが基本です。又、中央競馬の開催にあたっては厳正公正な運営とヨーロッパの競馬先進国に負けない競技場で行われる競馬こそ

紳士の高尚な趣味と考えています。私は今も芝生のない競馬場での競馬は馬券検討にいれていません。

一方、馬券購入については、購入は自己責任で馬券検討して購入する。また。外れた

事を後悔せず、次回の馬券購入に生かす事を継続して行く。

従って、競馬新聞については、記載されているデータの利用を様々な角度、解説を

参考に予想を組み立てて行く。

また、競馬は馬主、調教師、騎手、馬の実力をバランス良く出走内容を考えて競馬検討をする。

以上の事は60数年経った今も予想スタンス、競馬の楽しみ方として変わっていません。